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ダンベリー()は、アメリカ合衆国コネチカット州フェアフィールド郡北部に位置する都市である。ニューヨーク市からは約70マイル (112 km) にあり、ニューヨーク大都市圏に属している。2010年の国勢調査では人口80,893人であり、州内では第7位、郡内では第4位の都市である。 ダンベリー市は、初期開拓者の多くがイングランドのエセックスにあるダンベリー出身だったことから名付けられた。帽子を製造していた歴史があり、国内の帽子のほぼ25%を製作していたこともあったので、「帽子の都市」という綽名がある。 . 市内にはダンベリー病院や、ウェスタン・コネチカット州立大学がある。 == 歴史 == ダンベリーに最初の開拓者が入植したのは1685年のことであり、現在のノーウォークとスタンフォードから8家族が移動してきた。ダンベリーの地域は当時パークィオク族インディアンからそのまま「パークィオク」と呼ばれていた。初期開拓者の一人がサミュエル・ベネディクトであり、1685年に兄弟のジェイムズ・ベネディクト、ジェイムズ・ビーブ、ジュダ・グレゴリーと共に、パークィオク族から土地を購入した。土地のインディアンから「パクィアック」(開けた平原あるいは開かれた土地)とも呼ばれており、開拓者達は、町の名前に「スワンプフィールド」(湿地野原)を選んだが、1687年10月、植民地議会がダンベリーという名前を決めた。議会は新しい町の領域内で区画割りを定める委員会を指名した。1693年に測量が行われ、1702年に正式な町の認可が行われた。 アメリカ独立戦争のとき、ダンベリーは大陸軍のための重要な軍需物資保管所だった。1777年4月26日から27日、ウィリアム・トライアン少将が指揮するイギリス軍が町を燃やし、略奪した。ダンベリー市の市章に中央に書かれているモットーは、ラテン語の ''Restituimus'' (我々は回復した)であり、ロイヤリストの軍隊によって破壊されたあとから立ち直ったことを言っている。このリッジフィールドの戦いでダンベリーを攻撃したイギリス軍によって、大陸軍の将軍デイビッド・ウースターが致命傷を負った。ウースターはダンベリーのウースター墓地に埋葬された。ダンベリーにある私立のウースター学校はこのウースターにちなむ命名である。 1780年、ダンベリーで初の帽子工場がザドック・ベネディクトによって設立された。従業員は3人であり、州に18個の帽子を作った。20世紀のダンベリーは「帽子の都市」あるいは「世界の帽子首都」と呼ばれた。1904年にはアメリカで造られた帽子の24%を生産した〔。 1802年、トーマス・ジェファーソンがダンベリーのバプテスト協会に手紙を書いた。この協会は町の会衆派教会員から迫害を受ける心配を表明していた。ジェファーソンはその手紙で「政教分離原則」という言葉を使っており、この表現が初めて使われた機会になった。一般に信じられているようにアメリカ合衆国憲法にこの言葉は現れておらず、憲法修正第1条の自由権条項と組み合わされて、この制度が通念とされたのが正しい。憲法の起草者と考えられるジェームズ・マディソンは政教分離について似たような表現を使った〔James Madison quotes 〕。ジェファーソンの手紙はダンベリーのユニテリアン・ユニヴァーサリズム教会で展示されている。 最初のダンベリー祭は1821年に開催された。1869年に毎年開催される行事になった。最後に開催されたのは1981年だった。その催事広場は整地されてダンベリー・フェアモールが建設され、1986年秋に開業した〔Ravo, Nick, "Country Fair Becomes Land of the Lava Lamp ", ''New York Times'', September 4, 1987〕。 1835年、コネチカット州議会がフェアフィールド郡鉄道の鉄道認可を行ったが、投資が鈍かったので建設されることはなかった。1850年、組織の計画は後退し、ダンベリー・アンド・ノーウォーク鉄道と改名された。全長23マイル (37 km) の鉄道工事が急速に進んだ。1852年、ダンベリーを通る最初の鉄道が開通し、2編成の列車がノーウォークまで75分で走った。 ダンベリーの中心部が1822年にボロとして法人化された。このボロが1889年4月19日にダンベリー市として再法人化された。市と町が1965年1月1日に統合された。 帽子工場に水を供給するために造られた多くの貯水池の1つ、コハンザ貯水池が1869年1月31日に決壊した。その後の氷のような水の洪水で30分間の内に11人が死に、家屋や農場に大きな被害を与えた。 1900年6月29日、バッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショーに同行していたオグララ・スー族インディアンのアルバート・アフレイド・オブ・ホークがここで他界した。その遺骸はウースター墓地に葬られた。アフレイド・オブ・ホークの遺骸は112年後にウースターの従業員ロバート・ヤングによって発見された。バイソン革のローブで包まれいたその遺骸は、部族の子孫によって再度埋葬されるため、サウスダコタ州ロッキーフォードのセントマークス・エピスコパル墓地に移された。 1902年、アメリカ労働総同盟がダンベリーの非組合員帽子製造社ディートリヒ・ローの全国的なボイコットを呼びかけた。ローはシャーマン反トラスト法の下に不当な取引規制だと同盟を訴えた。1980年、アメリカ合衆国最高裁判所は同盟が損失に対して責任があると裁定した。これはダンベリー帽子製造社事件と呼ばれている。 1928年、フェアグラウンドに近い広さ60エーカー (24 ha) の土地を地元のパイロットが購入し、町に貸した。そこが空港となり、現在はダンベリー市民空港となっている。 コネチカット州最大の湖であるキャンドルウッド湖は、ウッド・クリークとロッキー川がフーサトニック川近くで合流する場所に、1929年に造成された湖である。現在の湖がある土地は水力発電施設としてコネチカット電灯電力会社が所有し運営していたが、2006年6月に900万ドルで売却された。 雑誌「マネー」の1988年8月号で、「アメリカ合衆国で住みたい都市」の第1位にダンベリーを挙げていた。これは犯罪率の低さ、学校の良さ、および場所が評価された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダンベリー (コネチカット州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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